月曜日, 12月 12, 2005

作品(1)


ゴー・オン キープ・ゴー・オン

 そして、音楽はつづいているのである。私たちが生きている限り。

  仕事から帰って来た。その日は早目の6時だった。冷えたビールの缶を開けると、少しだけ泡がこぼれた。急いで流しのステンレスの上に缶を持っていくと、西 陽が目の隅みに痛かった。3月前に出て行った名残の品物、歯ブラシやいつの間にか貯まった化粧品のビンが彼女の存在を、再び浮かばす。ぼくは大人ではな かった。それだけは認めなければいけない。
 暑かった日々は過ぎ去ろうとしている。手首の時計の日焼け跡も目立たなくなってきている。隣りのうるさかった犬も引越しとともにいなくなってしまった。物思いにふけるのには充分すぎるほど環境が整っている。
 どこから、この感情を切り開こうか? 思いの断片をつなぎ合わせようか? 
  まず、彼女の首を思い出す。春に小さな小さなカラフルな花を覗くときにみせたきゃしゃな首がセーターから出ていた。それは、精巧な芸術家が作った像より も、ぼく自身を喜ばせた。振り返ってその花を説明する様子。数学の大発見でもしたように彼女は感動していた。もっとその時に耳を澄ましていればよかった。
 また洗車が好きなこと。日曜の出掛ける前にいつも車をピカピカにしていた。こっちはコーヒーを飲んで、メジャー・リーグの結果に一喜一憂していたら、彼女が玄関に入ってくる。髪の毛を上手く小さくまとめていた。
「お気に入りの選手は打った?」と決まってたずねた。
「まあまあね。いつもいつも結果を出せるはずもないからね」と答えた。
 そして、あっという間に彼女は着替え、化粧も終えて部屋から出て来る。
「早く、出よう。日曜も終わっちゃうよ」と、まだ午前の10時すぎに彼女は言った。

 桟橋の横に、車を止めるといつも屋台で作っている料理の香ばしさが匂った。釣りをしている人。肩を寄せ合って歩いている男女。子犬と子供。そうしたさまざまな情景が、週日に擦り切れている心を暖めた。

「最近、仕事どう? あんまり話さなくなったね」
「うん。ごめん、あまり心配もかけたくなかったから」
「そんなに上手くいってないの」
「そんなこともないけど、どこから切り出して説明したらよいか分からなかったので、打ち明けにくくて」
 仕事上で、転勤が決まりそうになっていた。彼女がその状態について来てくれるか、それともこのまま関係が終わってしまうかが、とても心配だった。
「移動のこと?」
「まあ、そうだね」
「私だったら」
「なに?」
 そんな状況の時に、近くまで大型犬が近づいていて、彼女のそばに鼻を寄せた。その後を飼い主が急いで走り寄ってきた。時々、見かけたことのあるいつもこざっぱりした服装をしている紳士だった。
 彼女の父は、11歳の時に車にはねられ亡くなっていた。それからずっと母親と、本当によく似た母親と暮らしていた。

 出会いのこと。そう始まりのこと。学生当時、アルバイトで配達の仕事を請け負っていた。友人の父親が古本屋を営んでおり、店番とたまに依頼があった画集を近くに住んでいる画家に配達を頼まれていた。本という形体を愛していないその家の子供にかわって。
  配達先へ何度か足を運ぶうちに、その女性が描いた油絵のモデルに心を惹かれていった。当初は、自画像かと思っていたら、話の弾みで自分の娘をモデルにして いたことが判った。だから会う前に、その当人に出会う前に動かない彼女に夢中になっていた。だが、数ヶ月も本人に会うことがなかったが、ある日、その本屋 の店番の帰り道、駅の改札から出て来た制服姿の横顔をみて、あの画の女の子が眼の前を歩いてくるのを、間近に迫ってくるのに気付き当惑した。しかし、当然 のこと彼女は、ぼくの存在に気付かなかった。

 しばらくの間、配達の依頼がなかったが、店主というか友人の父だがにきくと、現在、その女性の画家は近くの病院に入院していたらしい。
 数日後、意を決して、花を持ちお見舞いに行くと、彼女も学校の帰りに寄っていた。そこで、はじめて紹介された。
 彼女の習い事の時間があるので、偶然に駅まで一緒に帰ることになった。会話をしてみると、大学の進学で悩んでいたが、ぼくが通っている大学も志望校の1つだという。でも、すでにぼくは、今の会社に内定が決まっていたので、同じ時期に通うことは出来そうになかった。
  その後、本屋でのバイトの帰りに会うようになった。数ヵ月後には、会社員と大学生として会うようにもなっていた。大学生になった彼女は、小さな女の子にピ アノを教えていた。ちょっと扱いづらい女の子であったらしく、よく愚痴をきかされた。しかし、彼女の口からでるすべての言葉は神秘的で、ぼくにとってはい つも美しく響いた。
 
 また、彼女の母親の作品はその頃、世間から受け入れられ支持されていった。自分の娘を描いた作品も多かったので、 よく二人で催されている会場に観にいった。ある人たちは、そのモデルになった子に気付くらしく、不思議そうに彼女の顔を見ていた。その時の彼女は、居心地 の悪そうな顔をしていたが、後でよく二人になると、わざと面白い顔を作って笑わせてくれた。
 どうしても欲しかったので、母親に頼んではがき程の サイズに描かれた彼女の10歳当時の絵を譲ってもらった。本当に生まれたばかりのようなみずみずしさがそこにはあった。だが、なぜか彼女はその自分の姿を 気に入らないらしかった。あまりにも真面目過ぎて座っている姿が、本当の彼女とはかけ離れているからだ。
 
 仕事は段々と覚え、軌道に 乗っていったが、その分平日に時間を見つけるのが難しくなっていった。その埋め合わせのように休日には、いろいろな誘いを断り彼女との時間を作っていっ た。彼女は自動車の免許を取り、突然ぼくなんかより数段と運転の技術が上達していった。遠くまで、彼女の母の知り合いの別荘に、よく出掛けるようになっ た。水や食料を買い込み、二人で料理をし、夕方には静かな森の中を散歩した。また、彼女がピアノを練習する横で、仕事関連以外の普段、読むことができない 本を開いた。地球上で誰も読まなくなってしまったゴーリキーもその時読んでいたと思う。時には、持ち込みたくない仕事もするようになってしまったが、彼女 はよい顔をしなかった。
 週日中に起こったさまざまな出来事を話し合いたかったからだ。

 彼女の美しさを恐れたこと。大学生は何かと飲み会があるらしく、彼女もよく出掛けるようになった。不機嫌な顔をしないように繕ったが、言葉の端々に彼女を責める口調が表れていた。その時には、貰った画を見て、痛々しい気持ちがなぜか自分の心に芽生えるのだった。
 化粧の仕方が洗練されていったこと。母親との付き合いで、僕との関係のない世界に入り込んでしまっていたこと。たくさんの財界人や芸術家に、母親が知られていった為、その分つられて彼女の交友範囲も拡がっていった。
 仕事をしたてのまだ自分に自信が持てない、過去の自分の姿が哀れに悲しく思い出せる。でも、彼女自身からも、たくさんの勇気をもらったことも否定できない。
  ドレスアップして彼女の好きな音楽家のコンサートに行ったこと。演奏後、小さなレストランで、手際よく音楽の説明をしてくれたこと。それでも、言いたいこ とが多くありすぎて、彼女の言葉やボキャブラリーが間に合わなかったこと。赤ワインと彼女の爪がきれいに融合したこと。あの瞬間を永久に閉じ込められれば よいと思う。コルクで、その甘美な時間に蓋が出来ればよいが。

 フィレンツェのこと。ウフィッツィ美術館の内部。その匂い。そして、ラファエロのこと。本物の美しさに触れるように、また彼女の母の頼まれごとを果すためにもその地に行った。母親もまた彼女の年齢の時に行っていたらしい。
 秋だった。彼女のコートやマフラーの質感。歩き回った後のバールでの美味しいエスプレッソの温もりやジェラートの軽やかな舌触り。
 ポンテ・ベッキオを渡っている途中、彼女の靴のかかとが道路の隙間に挟まって一瞬身動きがとれなくなって見せた困った表情。
 美術館の2階にあった、ラファエロの傑作群。世界中から音が消えた瞬間。このように実際に美しさを、そのまま画布に移す能力を持っていたら。
「どうしたの? 見惚れてるねぇ」
「うん。あまりにも美しすぎて」
「ほう。そうですよね。普段きれいな人をみてないからね」と彼女はからかい半分に言った。しかし、その絵の肌の色は彼女のちょっと寒い空気に当たっていた皮膚とよく似ていた。
  イタリアのネクタイを選んでくれたこと。リラという単位の桁があまりにも分りにくかったこと。彼女に親切に説明してくれたハンサムな店員の優雅な態度。ど こに行ってもレストランの給仕も彼女にはとても好意的だった。世界中が彼女にウインクを投げかけているように暖かく見るものが新鮮だった。

 イタリアという地に生まれた天才たちのこと。それも同時代に生きていたこと。またやるべき仕事が多かったが、彼らはきちんとそれぞれ生きた年数にかかわらず 成し遂げたこと。力強さや繊細さ。すべてを兼ね備えていた。 時代も要求されていることも異なっているが会社という小さな世界に嵌め込まれている自分。ものの見方がいくらか変わってしまった。
帰りの飛行機でぼくの肩にのせた彼女のちいさな頭。ランプの下で頼りなくなったこと。また一生この重みの責任を取りたいと思ったこと。
「寝れないの?」
「いや、面白い映画もやってるし」
「眼、真っ赤よ」
「終わったら、ちょっと寝るよ」

 喧嘩のこと。トラブルの種類。人々の幸福はいくらか似ているが、不幸の種類はさまざまだ、と言ったのは誰だったか? それとは逆に幸福な女性の顔や表情はたくさんの種類があるが、幸福ではない女性の顔は似ていないだろうか。
彼女にそういう様子が表れてしまったこと。彼女の皮膚に貼り付いた悲しみ。それを見た自分も不幸になったこと。責任の一端を担ったことが苦しかった。
「なんで、そんなこと言うの?」小さなうめき。
 若者の努力を礼賛するテレビ番組を2人で見ていたときのことだ。
「だって、報われない努力だってあるだろ?」強い口調。
「そんなこと言ったら何も出来ないじゃない」
 人生を肯定的に受け止めるべきか。一歩、身を引いて颯爽と乗り過ごすべきか。自分の存在を笑いつつ、流れていくべきなのか。
「ちやほやされてきた人に分かるかよ」確かに言い過ぎていることを確信していたが、つい口から出てしまった。
「本当にそう思っているの?」
「いや、言い過ぎたね」
その後、2人で散歩にでた。確かに、近くの公園でもバスケやダンスに励んでいる若者たちの輝きは本物かもしれないと思った。
「さっきは、ごめん。全然、仕事でも責任を任されそうになったのにしくじったような気がしていてね。つまらない八つ当たりだよ」
「いいの。気にしてないから」
カフェに入った。スイートなスイートなソウルミュージックのこと。その響き。音の重なり。大学時代の交際相手のこと。その思い出。
「この曲、好きだよね」
「なんで、知ってた?」2人の空間に、どんな過去も入って欲しくなかった。
「知ってるよ。写真見たもん」
「どこで?なんの?」
「大学の時バイトしてたお店の友達に見せてもらったじゃん。4人でどっか行った写真。その時につき合ってた人とカセットテープもあったよ」
 色褪せた記念。過去の勝利。
「終わったことだけどね」そう、ピリオド。片付いてしまったこと。
 あの瞬間には未来は継続していた。いつ終わるか分からないバルセロナのあの建設。同じような時間の単位が2人の前に拡がっていた。

 フランス文学の授業。系譜。過去の書物を生き返せる視点。生命を与えなおす努力。彼女の勉強を手伝って一緒に本を読み直した。
「最高の小説家って誰だと思う?」
「フランスならバルザック」
「量ですか?」
「全体で」
 彼女の朗読の迷宮。固くもない柔らかくもない声の質。2人でよく冗談半分にセリフの部分を読みあった。
 ユゴーとロダンを敬愛する助教授の話。その講義内容。熱弁。自分の思いを相手に伝える方法。伝達力。彼女はよくその人の真似をした。見たこともないその先生が身近に感じられた。
 授業が終わった後、よく待ち合わせをして図書館で調べ物にもつき合った。インターネットの広まっていない時代。何かを追求する作業。年代のこと。歴史、地理、年表。そうしたものが幾らか頭に入った。
 またセリーヌのこと。やけっぱちの生活。その図書館に一緒に通った時期にはじめて知った。ある人生とは別に二重に生きること。それがいかに困難か、またある面でいかに1人の人生を救うか。
「面白い本でも見つけたの?」
「まあね」
「良かったね。今度読ませて?」
「いつかね」あまり純真でもない読み物。本当の意味での芸術。

  2人の人生の捉え方。進歩や成長の傾向が違うこと。当然だが、彼女も将来の方向を考えていた。母親の再婚も決まりそうになっていた。10年間の父親の空 白。だが今さら、彼女の人生を導く新たな局面に関与しすぎることは、その男性にも出来ないはずだった。ぼくも何回か一緒に食事をした。本当に良い男性だっ た。話もあった。彼女がいなかったら会わなかった男性。いろいろなことも相談した。ぼくにとっての父親の不在の解消のようだった。
 教えてくれたこと。いや自然と習えるように道筋をつくってくれたもの。年上の女性との話の合わせ方。また後輩の女性のやる気を起こさせるアプローチ。こっそりお酒を飲む場所。彼と2人で会うことすらした。歳の離れた兄弟でもあった。
 
 そして彼女の大学4年になった時に彼ら2人は結婚した。彼女は与えられたマンションで1人暮らしをした。長電話もたびたびした。ビデオもよく観た。
 ジョニー・デップの哀しい眼のこと。彼女はその深い表情がとても好きだった。

  そのような時期に就職活動もするようになった。彼女の勤め先として、ある大手旅行会社にほぼ決まっていた。やっと、ぼくの保険会社の仕事も順調になってい き、その分さらに会う時間も減っていってしまった。近々の転勤のうわさ。次のステップ。東京から離れたことがないこと。でも新しい業務も興味があった。
 後ろを振り向いて、大事なものを暖めとおすことか、次の入り口を開くことの方が大切か、ぼくは迷っていた。
 
 決定的なこと。彼女の一番よい面を引き出せてはいないかと感じはじめた時。
そうした能力の疑い始め。彼女の内面の愛情の固まりのようなものが発酵できる余地。
  転勤から1年経ち、彼女の就職からも同じだけ過ぎた6月だった。27歳と23歳になっていた。何度か彼女は暇をみつけて名古屋まで会いに来てくれた。うれ しい反面、なにかがしっくりいかなくなっていたこと。どうにも止められない空間が、一瞬の隙も見逃さないサッカー選手のゴールのように挟まってしまった。

 見送ったこと。遠ざかる彼女の車の丸い背中。夏が始まろうとしていたこと。彼女の母親の絵を陰ながら支援しつづけてくれた方の子供。彼女は、その男に気持ちが傾いているようだった。

 たくさんのものを失った気がする。ある時期の自分を知っている他者。いつもそばにいたこと。慣れること。彼女のいない世界に慣れること。
気がつくと、いつの間にか深夜になっていた。空になったグラス。尻尾を失った爬虫類。でも、まだ生きている。
もう1度、誰かを真剣に愛することが出来るだろうか? その不安の書。スタートの覚え書。

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